Web人特別賞

(故)山下 憲治

株式会社インプレス インプレスダイレクト部長(当時)

INTERNET Watch


普通の人が自由に楽しめるメディア

約2万6,000誌、約2,564万人。「まぐまぐ」で配信されているメールマガジンの総数と読者数だ。普通に暮らす人たちが日々感じたこと思ったことを綴り、読者に届けるメールマガジン。日本独自の文化と呼ばれるメールマガジンの礎を築いたのが、山下憲治だ。
彼は、広告モデルが当たり前だったインターネットビジネスに、購読料による収益を確立した。読者に対して、インターネットが対価を支払うに値するメディアと認識してもらい、支払いたくなるコンテンツを立ち上げた。その後、インプレスグループのECサイトである「インプレスダイレクト」の企画立案に携わるなど、新しいビジネスの立ち上げに関与した。
インターネットに多くの足跡を残した山下氏。2000年7月7日、彼は35歳という若さでこの世を去った。そこで、山下氏を深く知り、共に仕事をしたインプレスの井芹昌信氏にお話をうかがった。

――メールをメディアとして使う、だれも思いつかなかった発想ですよね

当時、私とインターネットマガジンの編集長の中島(当時)、そして山下の3人である問題の解決策を議論していました。インターネットマガジンの誌面でWebサイトや新製品を紹介していましたが、月刊誌だったため、更新に追いつけない問題が表面化していたのです。
特に、山下は急速に盛り上がるインターネットの世界に対して、取材してから製品が読者に届くまでの「月刊」という時間の長さに不満を持っていました。解決策として、山下がニュースを扱う「週刊誌」を企画したものの、週間でも急速に盛り上がっていくWebの変化に追いつけないことは明らかでした。まして、日刊などと言うことは印刷メディアの側面からは思いつきもしませんでした。
週刊誌を作るには取材体制はもちろんのこと、経営的にも数億円もの資金が必要です。当時のインプレスでは、とても投資できるほどの余裕はありませんでした。
そこで、配布コストがかからず、かつ速報性のあるメディアはないだろうか。3人を中心に議論していたところ、中島が「メールを使えばいい」と気が付いたのです。それなら、週刊どころではなく日刊で発行できると私が言ったのです。これが、現在のメールマガジンの元祖と言える「INTERNET Watch」が誕生した瞬間です。

――メルマガビジネスにしていったプロセスはいかがでしたか?

それから、インターネットマガジンは中島、INTERNET Watchは山下と分担して初期インプレスを引っ張って行きました。編集部も完全に切り分けて、記事の共有は行いませんでした。月刊と日刊では、原稿はもちろん必要な情報ソースや編集スタイルなど、すべてが異なります。今から思えば、編集部を完全に分離した事は成功だったと思います。
INTERNET Watchは、当初から有料メディアとして考えていました。インターネットビジネスの定番、広告モデルすら確立していない時代です。そんな時代でも、山下はINTERNET Watchをメディアとして維持させるためには、購読料でペイできなければならないと考えたのです。
私の方で通信費や人件費などを試算した結果、月額400円なら採算に合うとソロバンをはじきました。ところが、読者がついてくるかどうか確信が持てません。
そこで、INTERNET Watch読者に問いかけたところ、1万8,000人から「400円でも読む」と返事が来ました。マージンを100円用意したのと、キリがよい数字ということで月額300円と決めました。今風に言えば、テスト・マーケティングを一通りやっているんですね。
INTERNET Watchを創刊した頃、インターネットを利用している人は先進的なユーザばかりでした。当然、メールで配信するINTERNET Watchの読者も先進的なユーザばかりです。日本では、インターネットの情報は非常に限られていましたから、INTERNET Watchはクチコミで広がりました。バイラル・マーケティングそのものですね。

――メルマガを広告媒体として使う発想も新しかったですよね

読者属性を考えると、「インターネットに積極的で興味がある読者、発行部数が1万8,000部のメディア」です。これには広告が入る自信がありましたが、問題は広告フォーマットです。文字しか入れられないメールで、読み手の邪魔にならず広告効果のあるフォーマット、これには頭を悩ませました。
山下は、新聞の3行広告を手本に、後のメールマガジン広告の標準となった「5行広告」を確立しました。

――メール自体が珍しかった頃ですよね、1万8,000通もの大量送信は初めてではないでしょうか

初めてのメディアということで、技術面、編集面、営業面と全方位的に苦労しました。メール=コミュニケーションツールと思われていましたから。まず、当時は1万8000通ものメールを毎日送る事自体、誰も想定していなかったため、技術的トラブルが多発しました。ルータやサーバの能力不足や、メールサーバの設定が間違っておりトラブルが発生、INTERNET Watchが届かないんです。クレームの中には「同じ内容のメールが100通届いた!」と、今から思えば冗談のような話もありました。これらの問題は、技術部の池田健二が中心に対応しました。
編集面では、メディアとして認知されるまでが大変でした。たとえば、頂いたリリースに関してメーカーに問い合わせて、掲載予定のメディアを聞かれるんですね。弊社は出版社ですから、先方は雑誌の掲載を期待している訳です。INTERNET Watchの説明をすると、「メ、メールですか!?」と、なかなか理解してもらえなかった。
営業面でも、メールを広告媒体にする発想自体が受け入れられませんでした。結局、INTERNET Watchで広告主を募ったところ、地方のウナギ屋さんが最初の出稿主になってくれました。

――山下氏がインターネットに与えた影響は

もっとも彼がインターネットに影響を与えたことは、メール新聞の発行でしょう。これまで、コミュニケーションツールとしてしか使われていなかった電子メールを、「メディア」として認知させ、実際にメディアになるまで育て上げた功績ははかり知れません。
それまでは、まさかメールで情報を受け取ることに300円の価値があるなんて誰も思ってもいなかったことですし、メールの中の5行というスペースに十数万円の広告価値があるなどとは誰も想像もしていなかったことです。それらを読者の方々や広告主の方々と「合意」をとりながらメディアとしての市場を形成してゆくこと。これこそが、まさに山下の業績であり、メールをメディア化したということだと思います。
さらに挙げるなら、結果としてサーバ環境の整備を進めるきっかけを作ったことでしょうね。うぬぼれかもしれませんが、我々が後に続くメールマガジンのための「露払い」をしたのかもしれません。
彼が亡くなってから、メールマガジンのコミュニティーで「山下氏を偲ぶ会」が開かれました。彼が、メールマガジンという文化を切り開いた人物と認められている証明になるかと思います。
(小林慎太郎/山本浩司)

PAGE TOP